散歩をしてたら大きなモニュメントがあった。さぞ歴史ある偉大なモノなのだろうと思い、モニュメント周辺をくるくる回ってみたが、どうもモニュメントに関する説明がない。
説明されないモノが外にあると、そこに無駄に意味づけをしたくなるのが人間だ。
そのモニュメントは細く、高かったため、太陽への信仰と先人に対する畏敬の念か何かだろうと勝手に結論付けた。本来は全く別の意味が込められているのだろうが、説明がない限りはこちらは想像に任せるしかない。美術館と同じ気分だ。そこに存在するモノはひとつだけだが、詳細が語られないことで各々が解釈し、作者の意図とは別のアンサーが無限に発生する。
例えば、田舎の駅前にハートのオブジェがあったとして。勿論、そこは待ち合わせ場所として有効活用されているし、ここ数年は「恋が成就する映えスポット」みたいな感じで遠方からも若い男女が来るようになった。ただ、なぜそこにハートのオブジェがあるのか、なぜハートなのか、そこら辺の背景については一切説明が書かれていないため、なんとなく「客寄せパンダ的な歴史的価値のない目印的オブジェ」と処理してしまうのが大半であることは想像に難くない。
しかしながら、実際はこうだ。
昔からその地域を治めていた大地主様が心臓病でお亡くなりになった。大地主様は最後の願いとして、私財をつぎ込んで、この地域が自分のものであることを後世にも伝えるため、人が集まる場所に自分の心臓の像を建ててほしい。と伝えた。
残された人々は、言われたとおりに建立しようとしたが、心臓をかたどったオブジェなど、生々しすぎて設置できるわけがない。そのため、心臓の象徴となるハート形のオブジェを人が集まる駅前に設置した。
こんなバックグラウンドを誰が想像できるというのだ。したがって、説明書きのないオブジェは、作者が意図的に解釈を視聴者に委ねているという意図を持った作品である、と解釈することが一番作者にとって嬉しいアンサーなのかもしれない。
浜名湖弁天島の鳥居みたいなオチもあるんだろうけどさぁ。
このようなことを考えながらただ意味もなく練り歩くのはやっぱり楽しいな。日常の刺激を貪欲に摂取していくこの姿勢、好き。