東京の人は駅前の雑踏を聴けばどこの駅か特定できるだろうか(駅構内のアナウンスにはモザイクを入れる)。という命題を思いついた。生憎私は東京在住ではないため、テスターとして私は参加できないし、簡単にテストできる環境にない。
まあ、東京じゃなくても雑踏は録音できるし、とりあえず最寄り駅で雑踏を録音しに行こうかな…と最寄り駅に直行した。
気づけば電車に揺られていた。電車に乗る気はなかったのに、いつもの癖で無意識にICカードを改札にかざし、電車に乗り込んでいた。
まあ、せっかくだから降りたことのない駅まで行って散策でもしようかな、と気持ちを切り替え、某駅で降車した。社会人と学生が同じくらいの割合で降車した。僕もその集団の一人として見られていたのだろうが、実態は「雑踏音を撮りに行ったら間違って電車に乗って新天地に降り立ってワクワクしている人間」である。恐らくその駅で降りた人間の中で唯一だっただろう。
降りた駅は「都会というには大げさだが、駅がある以上極端な田舎よりかは整っている程よい田舎」みたいな土地環境であった。駅周辺には個人経営の飲食店やコンビニ、いつから閉まっているのかわからないシャッターが目立ち、少し歩けば大通りに出て、全国どこにでもあるようなチェーン店の看板が出現する。主要駅ではない駅の代表例みたいだ、と思った。こういった駅の周辺の開発史はやはり似たり寄ったりなのだろうか。
本屋を発見した。思わず足が吸い込まれていた。品揃えは満足いくものではなかったのだが、この時代で満足に行く品揃えを期待する私のほうがバカだ。どこに行っても本屋に直行する癖、嫌いじゃないけど制御したいね。
夕方だったこともあり、駅周辺の店が店じまいをしていた。入り口に立ってたのぼり旗を回収し、店内BGMを止める店。昔ながらのおもちゃ屋さんで、外に出ているガチャガチャを店内にしまう店員さん。シャッターを閉める棒を店の奥から持ってくる人。体験したことのないノスタルジーに襲われた。彼らは彼らの日常なのだろうが、そのような生活から切り離された環境にいる僕にとってはものすごく感動する場面に遭遇した。多分、近くの小学校の児童が放課後遊びに行くのだろう。僕が小さいころよく行ってた駄菓子屋さんはまだ営業しているだろうか。クレヨンしんちゃんのオトナ帝国の逆襲が見たくなった。
程よく散策したところで、せっかくだから何かご飯でも食べようかと。焼肉屋さんが目に入った。すっかり焼肉の気分だが、焼肉を食べるだけの現金がなかった。コンビニATMへ向かった。コンビニに入店した瞬間思い出した。昨日買ったコンビニ弁当が冷蔵庫にある。流石に今日食べないとまずい。
最高に葛藤した。結論が出ない。こういう時は時間にサイコロを振らせることにしている。「駅に行き、次の電車まで時間に余裕があれば焼肉屋、時間がなければ帰宅」。駅に戻る。次の電車まで15分程度。コンビニ弁当の勝利だ。焼肉屋、また来るよ。
最寄り駅まで戻り、良い雑踏は撮れないものかと耳を傾ける。元気な高校生たちが同級生や先生の話をしている。それ以外は足音と駅の改札音くらいだ。そもそもあまり人がいない。やはり東京などの人が縦横無尽スクランブル状に次々と流れ消えゆくような環境でないと雑踏クイズをつくるのは難しいのかもしれない。
話変わって。受験や就職試験で記載する願書の類、書くのが苦手だった。ボールペンで記載するため、基本的に書き直しができないからだ。そのため、下書きをして、内容を推敲し、文字サイズを整えたうえでボールペンで清書。とんでもなく面倒だし、PCで入力させてくれよ、ネット出願のほうが楽だろ、と幾度となく思った。
ただ、今になって、「もしかしたらアレは、『書き直しができないという緊張感を与えることで、人生は一度きりであることを改めて思いしらせ、本当に人生を出願先に捧げる覚悟があるのかどうかを考えさせる教育の入り口』」だったのではないか、と思う。
対してネット出願は「何度も書き直しができ、かつ最低限のPCスキルを持ち合わせていることの証明」というメリットがある。
仮に前者の仮説が正しい見解の一つだったとしても、「ぶっつけ本番能力を高めるのはそこじゃないだろ」と思う。何事にも言えることだが、手続きは簡素化すべきである。手続きは手段であって目的ではないのだよ。簡素化万歳。ネット出願万歳。
こんなことを考えながら電車に揺られていたのである。行き当たりばったりの良い夕方だった。