大人になって色々勉強することも増えた。ここでいう「勉強」とは、座学以外も含むが、中学高校くらいまでは「勉強」=座学という認識をしている人は多いのではないか。「勉強しろ」と言われてフィールドワークに出かける中学生がいたら最強人間になると思う。
勿論、大人になっても座学による勉強をすることも多い。このとき、しばしば思うのが、「教科書丸暗記したいよぉ~!」である。
正直、中学までは教科書丸暗記が通用していた。冗談抜きで全部覚えていた。教科書だけでは飽き足らず、歴史の勉強では資料集まで読み漁って古墳の形やその分布図、古代文明の太陽神シャマシュまで覚えていた。
しかしながら、高校になってから、丸暗記が無謀であると気づいた。そのときまで「丸暗記」以外の勉強法、例えば「要点をまとめ、簡潔に説明し、そこを覚える」という方法、をとったことがなかったため、高校の勉強面では内心挫折することも多かった。
未だに中学の勉強法=成功体験と捉えてしまっている節があるのか、面倒事が発生すると「まとめて全部覚えればいいんでしょ」という感覚が芽生えてしまう。
だから、本来は「何が重要で、どこを削っても問題ないか」を考えて教科書を読み進めていく必要があるのに、無駄な部分も全部覚えてしまいたくなるという癖のせいで、要約が苦手だ。
今でも教科書や本を読む際に、どうでもいいような一文を気にしてしまうし、理解できるまで前に進めない。本当に直したい。
勿論それでも努力をする姿勢は見せている。最近では教科書を読む際、ノート片手に重要だと思う部分を書き起こし、あとでノートだけ読み返し、そこを覚える。という方法をとっている。覚える部分が少なく、且つ自分が重要だと思った部分を覚えることになるため、効率が良い。ただ、書きそびれた部分や重要な部分を誤認識していたら元も子もないのだが。
このように、多感な時期に無理矢理な方法で成功体験を積んでしまうと、後々それが毒となって内部から侵食してしまう可能性がある。何が正しいかどうかについては、自分が成長したときにわかるものだが、そのときの努力は否定したくはない。
勿論、僕自身の中学の時の成功体験も、今すべてが毒となっているわけではない。僕自身の努力量に対する指標にもなっているし、やる気になれば何でもできるという自己肯定感を上げる材料にもなっている。中学から現在に至るまで、たくさんの物事を経験してきて、中学生当時のような「無敵感」は消失してしまった気がするけど、今でもきっかけがあればそれは再び燃え上がるような気がするんだ。明日からも頑張ろう。