「○○(名詞)+する」という動詞。○○に入る名詞は、「その名詞そのものが身体等を動かすことを連想させる概念を含む言葉」が入るように思う(専門家ではないので不確かではある)。例を出すと、「勉強する」は「勉強」という名詞が脳を動かしたり、腕を動かしたりすることを連想させられる。「運動する」は「運動」が動きそのものを表すため、合点がいく。
「○○」に単純なモノを入れるとどうなるだろう。「テレビする」「本する」「お金する」「車する」「飛行機する」…一気に解像度が下がる。
ただ、一部例外があるように思う。「パソコン」や「ゲーム」だ。「パソコン(ゲーム)ばっかりしてないで勉強しなさい!」みたいなセリフ子供に吐くオカン。子供はパソコンやゲームに夢中になっているのだろう。意味が通じてしまう。
もっとも、「パソコン」や「ゲーム」に、「機械をいじるという動き」という意味を連想するなら論理的矛盾は生じないのだが、そうなると「洗濯機を回す」や「冷蔵庫を開ける」は「洗濯機する」「冷蔵庫する」が一般的な言い回しになっているはずだ。
しかしながら、洗濯機や冷蔵庫は、主目的がしっかりと明示されている機械であるため、「する」よりも適切な動詞が生まれた、という反論ができてしまう。一つの機械に対し、複数の目的がある場合、機械の名詞に対して「する」という動詞が共通認識になってしまうのだろうか。
「スマホ」はどうだろう。「スマホする」…なんとなく意味は通じるし、日常的に使っている人もいそう。ただ、個人的には「スマホをいじる」のほうがスマホを操作する動作を示す言葉としてはしっくりくる。対象となる機械のサイズの問題だろうか。
あ、「トイレする」も一応意味は通じるか。「トイレに行く」のほうが適しているのは勿論だろうけど、「先生トイレ!」「先生はトイレじゃありません!」という会話は小学校低学年のクラスでは未だに茶飯事なのかも。「トイレ」という名詞が動作そのものを示すシンボルになっているのだろう。まあ、「トイレに行く」という言い回しのほうが一般的、ということで今回は保留。
なんとなくまとめてみると、「○○する」の「○○」には「名詞そのものが動作を連想させるもの」か「主目的が複数あり、ある程度の大きさがある機械の名前」みたいな定義になってくるのかもしれない。
このように日本語に対してやれ名詞だ、やれ動詞だ、などと語っていると、「言語を理論的に学ぶことと話せるようになるのは全く別問題だよなぁ」と思ってしまう。
日本の学校教育(現在の詳細はわからないが)において、国語と英語の矛盾はかねがね違和感を覚えていた。国語は理論的な日本語の勉強というよりも、文学的表現や話の流れの汲み取り方に重きを置いている気がする。対して英語では、理論的、理屈的に文章を読み書きさせる。
国語の夏休みの作文課題で、「文法的に誤っている、減点」とされたことがあるひとはいるだろうか。「てにをは」のような助詞で赤を入れられたことはあっても、「文法がそもそも誤りであり、正しい日本語ではないため、意味が通りません」とまで言われた人はめったにいないのであろうか。
「私はトイレに行きたいです」の英訳なんて、「Oh,toilet!」でも意味は通じる(もちろんテストでは減点だろうが)。外国人が自分に話しかけてきて、「トイレ!どこ?行きたい!」って言われたら、近くの公園や駅を案内するだろう。ここで「あなたの日本語は文法的に誤りがあり、正しい日本語ではないため意味が通じません、私はあなたの日本語を日本語とみなしません」なんて返答する人は、道徳のテストを赤点連発して道徳の補習のために夏休みを消費した人だろう。
学校教育における英語にも、文法的な理解を促すものとコミュニケーションを目的としたものの2パターン準備されていることが多いが、どうしても「文法的に正しく言わないとだめだ」と2つの英語学習を脳内でリンクさせてしまい、コミュニケーションでも文法ばかりに気を取られてしまう人間も少なくないと思う。正式な統計とか全く参照していないけど、僕はそのタイプだったし、僕の学生時代の周囲にも似たような意見を言っている人は結構いた。
国語についても、「文法的解釈」を中心に勉強する教科を新設すれば、英語に対して抱える難易度のハードルが下がるのではないか。もしくは、英会話の授業で、「最低数の単語で会話し、どこまで情報を付け加えれば会話が成立するか」という手法を取り、最低ラインの英会話から始めればいいのではないか。
こんな感じ。
A「Book!」
B「??book?oh…reserve?」
A「No,I want book」
B「Let’s go library」
あえて「a」や「the」は抜いたが、十分会話は成立していると言えるだろう。
たしかに学校教育において「これくらいテキトーでいいんだよ」と正式に教育するのは無理があるだろう。そこに理解は示すが、そもそも言語自体が時代とともに変化するものであるため、曖昧なフレームを曖昧なままで放置することで生まれる自由にも目を向けるべきではないか。とも思うのである。
言語学に対して全く造詣がない一般人であるため、専門家が見たら鼻で笑うだろう。でも、一般人の言語感覚なんてこんなもんだよ。